学校とは
「なぜ、小学校や中学校へ行くのですか?」と聞かれて「義務教育だから」「国民の義務だから」と思った人は、復習です。
日本国憲法は、次のように書いてある。よく読んでいただきたい。
第二十六条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。
教育を受ける権利はすべての国民にあり、教育を受けさせる義務は保護者にある。子どもに受ける義務があるのでもなく、学校へ行くことを強制しているのでもない。この憲法を受けて教育基本法が制定されているが、その第5条、義務教育の項目にも以下のように書かれている。
第五条 国民は、その保護する子に、別に法律で定めるところにより、普通教育を受けさせる義務を負う。
2 義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする。
3 国及び地方公共団体は、義務教育の機会を保障し、その水準を確保するため、適切な役割分担及び相互の協力の下、その実施に責任を負う。
4 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料を徴収しない。
ここでも、学校へ行かせる義務などはどこにも書いてなく、国や地方公共団体に教育の機会を保障する責任を明記している。この責任を果たすために全国津々浦々に学校を設置している。しかし、この学校へ通わせる義務などはない。
ところが、学校について定めた「学校教育法」という法律で、突然、以下のように学校に通わせる義務が出てくる。
第十七条 保護者は、子の満六歳に達した日の翌日以後における最初の学年の初めから、満十二歳に達した日の属する学年の終わりまで、これを小学校又は特別支援学校の小学部に就学させる義務を負う。
この法律に従って、6歳になれば何の疑問も持たずに小学校へ入学していることになる。これは、法律なのだから、国会で議決すれば変更できる。憲法の精神に従えば、学校以外の場所で教育を受けることも認めるべきだろう。
ここでもう一度、なぜ、学校へ行かなければならないかという疑問に戻る。学校ではなく、なぜ、教育を受けなければいけないかと読み替えても良い。1つの答えとして、学ぶことは人間の本能であり、楽しみだからというのがある。疑問に思えば理由を知りたくなる、知らないことを知りたくなるというのは、だれでも自然に生まれる欲求であり、人類の進歩の源泉だろう。その国民全体から生まれる欲求に政府が応えるというのも自然な行為と言える。教育を受ける権利を保障した憲法の精神は、これに沿ったものだろう。しかし、保護者にその子どもに教育を受けさせる義務を負わせた理由にはならない。
すべての国民に教育を実施する理由は、国力の強化である。別に富国強兵とまでは言わないが、文字が読めなかったり、計算ができない国民ばかりでは、戦後の復興もままならない。すべての国民に最低限の教育をすることで、一定水準の労働力を育てようというわけである。国民の学びたいという欲求を満たしつつ、国力を上げるという目的も達成できるのであるから、すべての子どもに教育を実施する方針は多くの国が採用しており、なんら問題はない。戦後の混乱状態で、すべての国民に教育を実施するとなると、一箇所に集めて、同じ教科書を使って、統一されたマニュアルとしての学習指導要領を使って、同じ基準に合格した証である教員免許を持った教師が教えるというシステムは、すぐれて効率的な方法である。おかげで、優秀で均質化された日本国民によって短期間で先進国に追いつくことが出来た。
ところが、すでに先進国となり、ほぼすべての国民が義務教育を受けることが当然となった現代において、政府が、義務教育に対する責任を果たすというだけの理由で、画一化された学校を運営していて良いのだろうか。一言に普通教育といって、地域や時代よって違ってくるのは当然だが、これだけ価値観が多様化した時代であれば、個々の家庭や子どもによってもその内容が違う。にもかかわらず、政府は50年前と変わらない政策で全国いっせいに同じ教育を行おうとしている。
学校がどれだけ画一的か一例を挙げてみる。例えば、小学校を作るためには、公立であろうと私立だろうと「小学校設置基準」という文部科学省令をクリアする必要がある。この小学校設置基準には次のような規程がある。
第八条
校舎及び運動場の面積は、法令に特別の定めがある場合を除き、別表に定める面積以上とする。
第九条
校舎には、少なくとも次に掲げる施設を備えるものとする。
一 教室(普通教室、特別教室等とする。)
二 図書室、保健室
三 職員室
第十条
小学校には、校舎及び運動場のほか、体育館を備えるものとする。ただし、地域の実態その他により特別の事情があり、かつ、教育上支障がない場合は、この限りでない。
これらの規程には、地域の事情などで例外を認める文言もあるが、例外が認められることは稀なのが実情である。しかも、これらの基準は最低限の基準を示したものである。
体育館、運動場や職員室は当然必要と思う人も多いだろう。しかし、小学校にこれらを備えなければならないと規定されると、他の施設との共用もできないことになる。人口が少なくて、町営体育館を小学校の体育館として使うこともできなければ、近くの民間企業がグランドを開放してくれたとしても、小学校の運動場としては認められない。
もちろん、小学校や中学校を設置するのは、国ではなく市町村なので、法律や省令の例外規定を使って、独自の基準で学校を設置することも不可能ではない。ところが、生徒数、学級数、学校数、教職員数などが地方交付税の算出基準となることから、独自の基準で学校を設置することは、収入の上で不利となる。法令上は地方自治体の裁量で自由に学校を設置できるように見えても、お金で縛るというのは、教育行政に限らず官僚の常套手段だろう。
こうして画一化された学校しか存在しない場合、学校へ行けるだけで満足だった時代はいざ知らず、現代においては、個性を発揮したい子どもにとっては窮屈以外の何者でもなく、大いなる才能を持った子どもの芽を摘むことにもなる。行きたい学校でないにも関わらず、義務教育と称して無理やり押し込まれた子どもの相手をする先生も大変である。
ところが、その先生にはさらなる苦難が待ち構えている。学校といえば、大きな組織のように見えるが、それは生徒が多いからであり、1学年に40人のクラスが3つある小学校なら720人、10クラスの中学であれば1200人の学校だが、1200人のお客さんを抱えていると考えれば、個人商店と変わらない規模である。先生の数も、小学校ならクラスの数プラスアルファ程度なので、1学年3クラスなら20人前後となる。社員数20名といえば小企業だろう。事務の人も数名程度ではないだろうか。この程度の規模の企業だと、IT化もままならない。教育委員会と言っても、元先生の集まりであり、学校の運営の支援ができる体制ではない。各学校の仕事は学校の先生がこなすしかない。もちろん、子どもの指導以外にである。
チョークを買う、パソコンを買って使える状態にする、壊れたドアを修理するなどなど、すべてを少ない先生と事務員でやらなければいけない。その上、個人情報保護やモンスターペアレントなど、学校を取り巻く環境は先生の仕事を増やす一方である。そうなると、教育の質が低下するのは目に見えている。仕事が増えても、先生の数が増えないのは、設置基準や地方交付税の仕組みで説明したとおりである。
であれば、先生の仕事を効率化するしかない。ところが、同じ市内にある学校といえども共同して仕事の効率化を図ろうという動きはない。チョークを発注するのも各校ばらばらなのが現状である。せっかく、規格化された学校にもかかわらず、運営はばらばらというちぐはぐさである。市町村をまたいで共同発注したり、統一されたコンピュータシステムを構築するだけで、学校運営コストは格段に下がる。公立学校は予算が少ない。当然、1校ではコンピュータシステムを作ることなどできない。市や県に教育センターのようなものがあって、そこが教育用のソフトを作っている場合もあるが、学校のシステムなど、全国で1つあれば足りる。1校ずつでは小企業であっても全国の学校が集まれば、大企業並みのインフラを整備したいり、バイイングパワーが出せる。その分、経費や時間が節約でき、節約したお金と時間を教育に向けるだけで、質の向上が期待できる。
公立学校の校長は定年間際の一瞬しか勤めない場合が多い。教育長も名誉職的に名ばかりという場合も多い。それどころか、首長が学校に関心を示さない限り、真剣に学校運営のことを考える人間がだれもいないというのが実情である。もちろん、現場の先生は必死に子どものために日々努力をしている。しかし、現場の工夫だけでは限度がある。学校をサポートするしっかりした仕組みなくして、学校の再生は困難ではないだろうか。
共同発注や共通システムを作ればよいというアイデアは、いくつもの自治体が気づいているかも知れない。しかし、実現しているという話は聞かない。そこが公立たる所以だろう。市町村をまたいで一緒に仕事をするという習慣がない。しかも、地方自治体がシステムを発注したところで、メーカーのいいお客さんになるのが関の山で、現場の先生が喜ぶようなシステムは出来ない。入札をしたところで、公共工事の単価が民間より高いのは周知の事実である。そんな無駄使いの犠牲者が子どもではあまりにも悲惨である。
学校における教育以外の雑用を一手に引き受けてくれるところがあり、そこが効率よく、かつ安価に仕事をしてくれれば、学校も、先生も、地方自治体も歓迎だろう。そして、なにより、そのことで学校がかつての教育力を取り戻すことができる。
また、学校向けのワンストップサービスが実現されれば、新たに学校を作ろうという人や機関が増えることが予想される。教育の重要性を認識し、学校をなんとかしなればと考えている人は多い。しかし、自ら学校が作れるとは思わない。どうすれば学校が作れるか分からないことに加え、学校の仕事の中身が見えないからだろう。自分の体験は、生徒としてだけであり、職員室で先生がどんな仕事をしているかは知らない。しかし、これらの雑用をすべて引き受けてくれるのであれば、一念発起して新しいタイプの学校を設立する人が出てくる。そのことが、学校全体の質の向上をもたらす。